彼女の話

忘れていく彼女 -感情

投稿日:2017年1月13日 更新日:

前回前々回のつづき





彼女にはときどき顔を合わせるおばあさんがいる。
顔を合わせても話すときもあるし、話さないときもある、
それくらいほんの少しの時間一緒にいるおばあさんだ。

そんなおばあさんが小学生の時の話をしてくれたことがあった。

クラスにひとりいじめられっ子の男の子がいた。
その子の家はとても貧しく、家を手伝って学校に来ないことが多かった。
登校してもいつも同じたくさん穴があいたズボンを履いていて、またいじめられていたそうだ。

その時の小さなおばあさんは、どうしてみんないじめるのだろう、とも思っていたが、
何より”先生は大学も出て高給取りなのにどうしてあの子にズボンを買ってあげないのだろう”と腹が立ったという。

それから幾年がたって、思いがけず二人は近くに住んでいることが分かり、
昔のいじめられっ子はちゃんぽんの麺の配達人をしていた。
偶然会ったおばあさん(当時は年頃だったと思われるが)を覚えていて、麺をおすそ分けしてくれたそうだ。
今でも生活は大変そうで申し訳なく、でも気持ちがとても嬉しかったので数日後にビールのお返しをしたという。

それから数年たって、二人はまた同窓会で再会したそうだが、
昔のいじめっ子たちと先生はこの彼のことをあまり覚えていなかった。
おばあさんは憤慨した。
それにも関わらず先生の新築する家の手伝いにこの子も行くと知って、
お人よしにもほどがあると鼻息荒く止めた。

それからまたしばらく二人は音信不通になっていたが、ふと思い立って電話をかけてみた。
昔のいじめられっ子には娘さんがいて、とても丁寧に対応してくれた。
電話口に出た彼は”とても良く育っているのだ”と娘さんのことを話してくれて、
おばあさんも心から電話してみてよかった、今幸せそうでよかった、と思った。

それから数十年が経つという。
最近電話してみようかとも思うが、もう死んでいるかもしれないね、
とあっけらかんと言い放ち、おばあさんは口を閉じた。


彼女はこの話を聞きながらある一つの当然のことに気付いた。
ここでは幾年とか数年とかしばらく、とか書いたが、
このもう80を過ぎたおばあさんは驚くほどその時期をハッキリと覚えているのだ。
それはなぜか。

「そこにはいつもおばあさんの熱い激しい感情があったから」

”とても腹が立った”、”申し訳ないと同時に嬉しかった”、”鼻息を荒くした”、”幸せそうでよかった、と思った”

おばあさんは、起こったことひとつひとつを覚えているのではない。
その時々の大きな自分の感情を覚えているのだ。


彼女は人の気分や感情に影響されてしまう。
彼女はいつも思う。
その間自分の気持ちは一体どこへ行ってしまっているのだろう。
”自分”は何を思っているのだろう、何を感じているのだろう。
「影響された感情では”私”の記憶は残らないのだ」

「ロープで結ばれた私の記憶と感情は、どちらかが重しとなって、どちらかがそれに引きずられて、こころの奥底に沈潜している」




僕らと少し違う世界に住み、
頭の中に散らかったメモリー箪笥を抱え、
こころの奥底では脱水のあとの洗濯物みたいにたくさんの記憶と感情をつないだロープが絡まりあって沈んでいる。
それらすべてが彼女を忘れっぽくさせているのかもしれない。

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