彼女の話

今ここ

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彼女が引越しをした。
久しぶりに行ってみたら人がいない物件にかけられる例の水道局の袋がドアノブにひっかかっていた。
水滴に目とか鼻とか乗っけてある、よくあるあのイラストがゆらゆら風に揺さぶられていた。


連絡してみると引っ越したのだと話した。
いや、知ってるけど。

彼女はどこかを去ると、自分の過去を知る人間になかなかそれを教えたがらない。
いつものことだ。


彼女は齢のわりに引越し回数がかなり多い。
転勤族でもないのに人が聞いたら多少驚く。

小さい頃からどこかへ行きたいと願い続けていたのが
自分で稼ぐようになってからはタガが外れたかネジが外れたかしたみたいに
ある意味爆発的なパワーで動き続けているような気すらする。
うろうろうろうろ、うろうろうろうろ・・・
少し住んでは、ただ突然にテレビの裏番組にでもなりたがるように去る。
切り替えて3秒後にはそこに何があったかすら忘れ、忘れられ。
前世はモンゴルの遊牧民に違いない。


新しい城は風がよくふく場所であるらしい。
彼女の定位置からは空と木々と漫画の枠線のような電線が「ぷーー」とぶしつけにひいてあるという。
それ以外は何も見えない。

駅が近いせいで時々静かに色んな音が聞こえてくる。
「急に人が、生活が、近くなった気もする」

駅の手前、彼女の家のすぐ前には遊歩道があり川がある。
雑木林も点在している。


今になって気付いたことだが、以前彼女が住んでいた町はかなりのコンクリートタウンだった。
ありったけの土地に隙間なくコンクリをこれでもかと敷き詰めました、といったようなところだった。
あまりにも緑がいなかったのである。

以前は城で聴いていた音楽でもってそのまま城を連れていくようにイヤフォンを肌身離さず、
外出先から戻るときは外の世界のすべてを振り切って走るように自転車をこいで城に駆け込んでいた。


彼女は引っ越してからよく外を歩くようになった。
外出する頻度も増えたし、自転車も連れて行くが乗ることがない。
イヤフォンもあまりしなくなった。
彼女は自分がこんなにも木々や草花に飢えていたことに気付いた。
全身で彼らを感じようと裸足でいられるところでは靴をぬぐ。
目を閉じて身体中の毛穴を開く。全部吸い込もうとする。

雨が降るといそいそとまた出かけていく。
「やあやあやあ」と声をかけながら林の中を歩く。

「緑は雨の中が一番美しい」
彼らが喜んでいる時が一番。
「日本は晴れの日の方が多いから」

マイノリティという言葉を僕は思い出した。


ぼわっと冷えた空気がむせかえるように彼女の足元から湧き上がる。
彼女を通り越して枝葉が作る天井まで届き、雨を含んでまた彼女へ返ってくる。
土に返す邪魔をしているようで悪いような気もする。

歩いていると人とも時々会う。
海外だったら挨拶を交わすところかもしれないが、
日本人はお互い素知らぬ顔ですれ違う。
彼女にはそれがいい。
お互いに同じ道を歩き、同じものを感じながら道を譲り合う。
目を合わせずとも言葉を交わさずとも、ふっとその瞬間だけ同じ空気が流れる。
そして消える。
それが心地いい。



とにかくなんだっていいが、彼女が外に出るようになったというのはいいことだ。
今でも城に居る時間のほうが長いのだが、以前よりはいい。
物理的な変化はきっとそれだけにとどまらない。
彼女がもううろうろしなくて済むような場所が見つけられればそれでいいのだ。



今ここ

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