彼女の話

白糸

投稿日:2017年7月30日 更新日:

ふと気付くと彼女の左手首に新しい傷があった。
熱したフライパンの淵があたり火傷したそうだ。

その火傷は細く長く茶色くなっていて、
今となっては白糸のようになった他の無数の傷跡たちを
否応なしに目立たせている。


彼女はあの頃のことをよく覚えていない。
映画『エターナル・サンシャイン』のように、
誰かに頼んでその部分だけを切り取ってもらうよう頼んだような気もするし、
自分ではない誰かがやったことのように思ったときもあった。
今はそもそもそれは自分の記憶ではないような気もする。

でも確実らしいことは彼女は絶対に死にたいと思ったことなんてない、ということだ。


彼女はそのぼんやりとした記憶の切れ端に、
自分の左手首にたくさん浮かび上がった赤い線や滲んだ紅色の体液をみて
ああ、生きている、と思った。
そして安心できた。
生きている、と。

それはほとんど手当てされることはなかった。
毎度切りっぱなしの垂れっぱなしになっていた。
汚くみえたこともあったが、大抵は見ると心穏やかでいられたようだった。


彼女は今でも気持ちが荒むとなんとなく左手首を仰向ける。
反らしてみる。
何かの証であるかのように確認して、安堵する。

彼女は偶然に生まれた新しい傷をみて、少し複雑な気持ちになっている。
これはただのドジで生まれたものだが、
これも他の白糸たちと同じように延々消えずに残っていくんだろうか。
生きているという証とドジの証が同じ場所に共存するのは何かおかしい感じがする。
それとも自分はこの白糸たちを何か崇高なものに仕立てようとし続けてきたのだろうか。
ドジの証から血は流れなかった。


白糸の傷たちは、昔に比べて薄くなってきている。
昔はリストバンドなどして隠していたが、今はそんなものをつけている方が目立つので、
腕時計でカモフラージュしているといえばしている。
ただし女性ものの腕時計のベルトは細い。
見る人が見ればすぐに気づく。
火傷の茶色い傷のせいで今後気づく人が増えるかもしれない、と彼女は少し懸念している。

人は手首の傷を見れば死にたがりだと思うだろう。
彼女は言う。
「私は死にたいと思ったことなんてない」



白糸

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