彼女の話

泥の中に手を

投稿日:2017年2月8日 更新日:

彼女はある夏の日のことを後悔している。

その時彼女はひとりで7時間行程の山登りをした。
山登りといっても山登りとハイキングの間みたいなものだった。
彼女はときどきこうやってひとりで人のいないところへ行きたがる。

3時間ほど登ったところで、彼女は持ってきたおにぎりなんかを沢のそばで食べた。
水の流れる音と、木々の葉や土の上の落ち葉たちが風でこすれ合う音と、
ときどき鳥の鳴く声と、すぐそばを通り過ぎて行った虫の羽音が聞こえていた。
意外と自然の中も騒がしいんだよなと笑ったが、
一番脳に響いてくるのは、自分がおにぎりをかみしめる顎とか咀嚼されて唾液と一緒に飲み込まれていく米の音だったりした。


ふいに雨が降ってきた。


山の天気は変わりやすいが、辺りは明るいままだったし雲も黒くないのでお天気雨かなと彼女は濡れていることにした。
雨に当たられながらぼんやりとそばをせせらぐ沢を見ていた。
沢の水底で急に雨に起こされた土だか砂だか分からないものが一つ一つ渦巻きみたいに水面に上がってくるのを見ていた。

雨が上がった時、彼女の足元には沢から派生した泥濘が生まれていた。
とても滑らかで、それはまだだれも足跡をつけていない新雪のようだった。

彼女は瞬間両手をそこへ潜り込ませたい衝動に駆られた。

持っていたペットボトルを脇へ置き、袖をまくった。
冷たいだろうか温かいだろうか何かいるだろうか・・・
そわそわしながら手を伸ばした。

そして口元を少しニヤつかせたまま彼女は凍り付いた。

「だれかみてる」


ゆっくりと腕を引き寄せ、袖をおろした。
まるで映画を巻き戻すようにさっき脇へ置いたペットボトルを手に返してもとの姿勢に戻る。
数秒おいて彼女は後ろを振り返った。

誰もいなかった。


思えばなんの物音がしたわけでもなかった。
彼女はバカらしい!と立ち上がって頂上を目指し歩き出した。

彼女はその後歩き続けながら、そして今でも考えている。
なぜだれかみていると感じたのか、だれがみていると思ったのか、なぜバカらしいと思ったのか、泥に手を入れることがバカらしかったのか、だれかみていると感じたことがバカらしかったのか、なぜ泥に手を差し入れたくなったのか、そしてなぜ今もなお思い出し考えるのか、あの時泥の中に手を入れていたら何か変わったとでもいうのだろうか


冬、積もった雪を見て
彼女はあの夏の泥濘の後悔を思う。


-彼女の話

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