彼女の話

良き不幸

投稿日:2017年5月31日 更新日:

彼女のダウンタイムは今日で終わるらしい。
彼女もまた本格的に復帰し、朝から晩まで箱の中、
様々な人たちに囲まれて仕事をすることになる。


この約2ヶ月のダウンタイム中、彼女は比較的穏やかだった。
彼女を乱す多くの原因は人との接触から生まれる。
外界を自ら遮蔽し、人とできるだけ関わらずにいることで
彼女は心中穏やかでいられた。


ただし、彼女はダウンタイムの終りになるといつも思うことがある。
こうやって凪の中にずっと漂っていたら自分はいつか自分ではなくなって
気がついたらはるか沖の海の一部に溶けてしまうのではないだろうか、と。
凪は気持ちがいい、しかしそこからは何も生まれて来ない。

彼女はそれが一体誰だったのかもう忘れてしまったのだが、
「不幸になりたい」と願った文豪の気持ちが今は分かるという。
文豪は当時としては大変恵まれた環境で育ち、何不自由ない生活を送っていた。
しかしある程度の才能を認められながらも自分にとっての究極の作品がかけないのは
ひとえにそれは自分が幸福であるからだ、と恵まれた自分の境遇を嘆いたそうである。


このダウンタイム中、彼女はあまり絵を描かなかった。
描けなかったのか描かなかったのか分からないが、
とにかく彼女は時間があるにも関わらずスケッチブックから遠ざかっていたのである。
全く描かなかったわけではないが、いつものようにはできなかった。

それから彼女はいつものように意味不明な言葉で僕に語りかけてくることがなかった。
非常に理性的というか意識的というか、『まともで、うまくやれている』人間みたいだった。

僕も彼女自身も別に彼女が前述の文豪と同じ才ある人間だとか言いたいわけではない。
でもこの期間中に僕は彼女の中に何か空っぽになったような部分を見たような気がしたのだ。
凪の中からは何も生まれて来ない、と言った彼女は、
穏やかであるはずなのに不安そうだった。


彼女は単純に自分は楽なところにいると、
なんの創造性も生産性ももたなくなってしまうのではないか、と思っているのだ。
彼女も幸せになりたいとは願ってはいるはずだが、
そうすると自分のスケッチブックは、今までにあった感情は、
一体どこでどうなってしまうのだろうか。
「幸せになったらあの子たちは消えてしまうの・・・?」


おかしな矛盾というか齟齬をきたす話だが、
彼女は明らかに「あの子たち」と離れたくないのだ。
彼女を悩ます色々な鬱屈もあって彼女なのである。
そこから何かが生まれるというのならそれはそれで悪くないのかもしれない。
それをとってしまったら確かに彼女は彼女でなくなるような気もするし。
でもそれでは幸せにはなれないかもしれない。
しかし「あの子たち」と一緒なら彼女らしくもあり・・・

ほんとに幸せってなんだろう・・・



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